テレビのない生活

2005年6月30日
テレビのない生活

それは僕らの生活を遠慮なしに侵食している。普段、テレビはなにげなく点け、なんの気なしに観て、眠くなったらスイッチを消す。一方的に送られる電波を画像に変換して、なおも雄弁に語る。政治を、経済を、人間模様を、芸術を、歌を、笑いを。

曽野綾子「太郎物語」の一場面で、父親がテレビを庭石に叩き付けて壊すシーンがあって、なぜかその文章が僕の中で映像化されて残っている。なんで父親がテレビを壊さなければならなかったのかは忘れてしまったが、その後もテレビがないことの不自由さについては否定的だったように記憶している。

旅行中の1週間でテレビを観たのは大間の素泊まり宿と、大館の日帰り温泉のロビーでのみだ。そのとき困ったこともなければ、観なかったことによって今困っていることもない。

つまり、なくてもいいのだ。

情報は多いに越したことはない。知らない世界を見聞きすることもできる。美しい絵画も、世界一のソプラノも、電磁波を放つ箱を通じて鑑賞できる。

しかし、それは本物であって本物ではない。空気がないのだ。色彩の波長や、歌声の周波数は同一でも、醸し出す空気は決して感じることができない。富士山の御来光の映像を観て、美しいと感じるが感動はない。心に残らない。富士山に苦労して登頂を果たし、朝早くその場に立ち合わせた人だから一生涯の思い出として記憶される。

テレビ世代の僕らは、画面に映るもの全てを信じそうになる。見聞を広めたような気になる。常にその錯覚を自覚しなければ、きっと何も残らない。人間が馬鹿になっていく過程が、テレビという大きな波によって為されていると言われても、僕は不思議に思わない。

GW中のテレビ番組を覚えている人は少ないだろう。しかし僕は、その1週間の出来事を暗誦んじることができる。

テレビのない生活。人間らしい生活。

でも今日もまた、僕はリモコンの電源ボタンを押すだろう。画面にはグラビアアイドルの胸の谷間やお笑いタレントの姿が映し出されるだろう。そして、なんの感慨を抱くことなく、布団に入って寝てしまうだろう。

きっとそんなもんだ。

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