百名城18城目。実際の訪問日は5月5日。
震災によって石垣が崩れ、遠巻きに写真を撮るだけになった。奥州における戊辰戦争緒戦の地、白河小峰城はつい最近戦争があったかのようだった。
あの震災から2年以上経過している。石垣の補修まで手が回らないのだろうが、崩落した大小様々な石が大地の強烈な揺れを物語る。小振りながら美しい櫓が健気に乗っている様が、一層切なさを増幅させる。訳がわからない使い道をするなら、ここにも復興予算を回せばいいのに。
西郷頼母率いる奥羽諸藩と、錦の御旗を掲げ新式銃で武装する新政府軍。彼我の戦力差は明らかで、白河という要所を落とすことにより、会津の喉元に刃が突き付けられる格好になった。
今回のツーリングでは、会津→二本松→白河と、戊辰戦争の戦跡を時間軸を遡るように回った。明治という新時代の産みの苦しみとして不可避の戦いだったのか、八重の桜ブームの中でしばし考える機会となった。
震災によって石垣が崩れ、遠巻きに写真を撮るだけになった。奥州における戊辰戦争緒戦の地、白河小峰城はつい最近戦争があったかのようだった。
あの震災から2年以上経過している。石垣の補修まで手が回らないのだろうが、崩落した大小様々な石が大地の強烈な揺れを物語る。小振りながら美しい櫓が健気に乗っている様が、一層切なさを増幅させる。訳がわからない使い道をするなら、ここにも復興予算を回せばいいのに。
西郷頼母率いる奥羽諸藩と、錦の御旗を掲げ新式銃で武装する新政府軍。彼我の戦力差は明らかで、白河という要所を落とすことにより、会津の喉元に刃が突き付けられる格好になった。
今回のツーリングでは、会津→二本松→白河と、戊辰戦争の戦跡を時間軸を遡るように回った。明治という新時代の産みの苦しみとして不可避の戦いだったのか、八重の桜ブームの中でしばし考える機会となった。
百名城17城目。
多賀城は百名城の中で、極めて異質の城と言えるだろう。東北を平定せんとした、時の朝廷の命で築かれ、一万もの人々が暮らす大都市の中心として存在した。役所であり、軍の駐屯地であったのだろう。しかし戦国の城のような石垣も深い堀もなく、いわゆる「日本の城」の趣はない。
ただ当然この時代を経なければ、統一国家としての日本は確立しなかったわけで、「城」という側面から歴史の流れを紐解いていくと考えれば、百名城としてなかなか面白いチョイスなのかもしれない。
ボランティアガイドの方々も熱心で好感が持てるが、GWで観光客が多くなることを見越して増員したのか、各所で何度も話し掛けられるのは多少辟易した。話を途中で打ち切って立ち去るのも申し訳ないし…「時間ありますか?」「もう説明は聞かれましたか?」という前置きがあればよかったかな。
仙台に8年住んでいたにも関わらず、多賀城には一回も訪れたことがなかった。街には津波の爪跡が残っている。多賀城が観光資源としてたくさんのお客さんを呼べるようになるには、ストーリー性がまだまだ足りない気がした。個人的には予想以上の楽しさは感じられたので、復興の一助として頑張ってもらいたいなぁ。
多賀城は百名城の中で、極めて異質の城と言えるだろう。東北を平定せんとした、時の朝廷の命で築かれ、一万もの人々が暮らす大都市の中心として存在した。役所であり、軍の駐屯地であったのだろう。しかし戦国の城のような石垣も深い堀もなく、いわゆる「日本の城」の趣はない。
ただ当然この時代を経なければ、統一国家としての日本は確立しなかったわけで、「城」という側面から歴史の流れを紐解いていくと考えれば、百名城としてなかなか面白いチョイスなのかもしれない。
ボランティアガイドの方々も熱心で好感が持てるが、GWで観光客が多くなることを見越して増員したのか、各所で何度も話し掛けられるのは多少辟易した。話を途中で打ち切って立ち去るのも申し訳ないし…「時間ありますか?」「もう説明は聞かれましたか?」という前置きがあればよかったかな。
仙台に8年住んでいたにも関わらず、多賀城には一回も訪れたことがなかった。街には津波の爪跡が残っている。多賀城が観光資源としてたくさんのお客さんを呼べるようになるには、ストーリー性がまだまだ足りない気がした。個人的には予想以上の楽しさは感じられたので、復興の一助として頑張ってもらいたいなぁ。
百名城16城目。
30の手習いでバイクの免許を取得し、DUCATIモンスター400を購入して半年後の春、BMW F650GSと一緒に夜桜鑑賞に来たことがある。桜がどうこうよりも、東北道をかっ飛ばす連れの、徐々に遠ざかっていくテールランプを必死で追いかけた印象だけが強く残っている。
駐車場に着くと、まず二本松少年隊の銅像が目に止まる。不勉強で全く知らなかったのだが、会津の白虎隊と同じように少年で組織された部隊が二本松にも存在し、銃を取り勇敢に戦ったそうだ。大河ドラマもあって、会津の悲劇がクローズアップされているが、ここでも銃声がこだまし、うら若き命が散っていたのだ。二本松攻防戦は奥州攻略の緒戦となり、勢いに乗った新政府軍は会津に鉾先を向けることになる。
美しい門も本丸の天守台も復元されたものらしい。ただ小高い丘に築かれた城は相当な規模だったであろうし、奥州の玄関口としての威厳や風格があったことは想像に難くない。
本丸から雪が舞う磐梯山を望む。城内には桜まつりの幟が風になびいている。ほとんど散ってしまった桜と、閑散とした祭りの後。なんとなく物悲しい風情であった。
30の手習いでバイクの免許を取得し、DUCATIモンスター400を購入して半年後の春、BMW F650GSと一緒に夜桜鑑賞に来たことがある。桜がどうこうよりも、東北道をかっ飛ばす連れの、徐々に遠ざかっていくテールランプを必死で追いかけた印象だけが強く残っている。
駐車場に着くと、まず二本松少年隊の銅像が目に止まる。不勉強で全く知らなかったのだが、会津の白虎隊と同じように少年で組織された部隊が二本松にも存在し、銃を取り勇敢に戦ったそうだ。大河ドラマもあって、会津の悲劇がクローズアップされているが、ここでも銃声がこだまし、うら若き命が散っていたのだ。二本松攻防戦は奥州攻略の緒戦となり、勢いに乗った新政府軍は会津に鉾先を向けることになる。
美しい門も本丸の天守台も復元されたものらしい。ただ小高い丘に築かれた城は相当な規模だったであろうし、奥州の玄関口としての威厳や風格があったことは想像に難くない。
本丸から雪が舞う磐梯山を望む。城内には桜まつりの幟が風になびいている。ほとんど散ってしまった桜と、閑散とした祭りの後。なんとなく物悲しい風情であった。
百名城15城目。
新発田城から大河ドラマ「八重の桜」で沸く会津に移動する。会津の山並みには白い雪がかかっていて、昨日からの寒さを証明していた。磐越道は山の中を通っていくので、今日も降るんじゃないかと心配になる。
会津市内は平日にも関わらず、幹線道路は混雑していた。他県ナンバーが多かったので、やはり大河ドラマ効果が大きいのだろう。僕のバイクは鹿児島ナンバー。薩摩の鉄馬は会津ではあまり受け入れられないかもしれない。駐車場で倒されたりしないか、こちらもちょっと心配だ。
会津若松城というより、鶴ヶ城の方がしっくりくるこの城は、10年程前の春、桜が満開の時期に訪れたことがある。今回、桜はもう葉が出ていたけれど、白亜の城の美しさや気高さには全く変わりはなかった。
小学生か中学生の時、「ならぬものはならぬ」というタイトル(だったと思う)の白虎隊関連の本を、何度も繰り返し読んだことを覚えている。ならねものはならぬ、愚直に生きた会津の哀しみに、散りゆく桜がシンクロした。
新発田城から大河ドラマ「八重の桜」で沸く会津に移動する。会津の山並みには白い雪がかかっていて、昨日からの寒さを証明していた。磐越道は山の中を通っていくので、今日も降るんじゃないかと心配になる。
会津市内は平日にも関わらず、幹線道路は混雑していた。他県ナンバーが多かったので、やはり大河ドラマ効果が大きいのだろう。僕のバイクは鹿児島ナンバー。薩摩の鉄馬は会津ではあまり受け入れられないかもしれない。駐車場で倒されたりしないか、こちらもちょっと心配だ。
会津若松城というより、鶴ヶ城の方がしっくりくるこの城は、10年程前の春、桜が満開の時期に訪れたことがある。今回、桜はもう葉が出ていたけれど、白亜の城の美しさや気高さには全く変わりはなかった。
小学生か中学生の時、「ならぬものはならぬ」というタイトル(だったと思う)の白虎隊関連の本を、何度も繰り返し読んだことを覚えている。ならねものはならぬ、愚直に生きた会津の哀しみに、散りゆく桜がシンクロした。
百名城14城目。
新潟市内を出発して、新発田に向かう。バイパスは快適に走れたが、昨日から続く寒さは健在。エンジンも身体も暖まらないうちに着いてしまった。
新発田城は、三層の櫓の上に三匹の鯱が載っている珍しい城だそうだ。こじんまりとした中に、気品のようなものまで感じる。別名を菖蒲城というらしく、気高い様はさもありなんと思う。
ここのボランティアガイドがとても気さくだった。もしかしたら本当はダメなのかもしれないが、実際に国の重要文化財に指定されている表門の扉を動かさせてもらえた。「重文をここまで触れるところは他にない」そうで、ただ規則的に本当に大丈夫なのかは不安が残った。
城の半分以上は自衛隊の駐屯地。各地の城も昔からの師団や旅団の所在地であることが多いが、常在戦場の気概が見られるようで頼もしい気もするし、史跡を全部見られない残念さもある。
新潟市内を出発して、新発田に向かう。バイパスは快適に走れたが、昨日から続く寒さは健在。エンジンも身体も暖まらないうちに着いてしまった。
新発田城は、三層の櫓の上に三匹の鯱が載っている珍しい城だそうだ。こじんまりとした中に、気品のようなものまで感じる。別名を菖蒲城というらしく、気高い様はさもありなんと思う。
ここのボランティアガイドがとても気さくだった。もしかしたら本当はダメなのかもしれないが、実際に国の重要文化財に指定されている表門の扉を動かさせてもらえた。「重文をここまで触れるところは他にない」そうで、ただ規則的に本当に大丈夫なのかは不安が残った。
城の半分以上は自衛隊の駐屯地。各地の城も昔からの師団や旅団の所在地であることが多いが、常在戦場の気概が見られるようで頼もしい気もするし、史跡を全部見られない残念さもある。
百名城13城目。
高岡から雨の北陸道をひた走り、僕は上越に向かっていた。ふと、昼食らしきものを何も食べていないことに気付き、名立谷浜SAでソースかつ丼を食する。午後4時前、なんとか5時までには春日山城に到着する予定だった。かつを頬張りながら、iPhoneで春日山城情報を見ていると、スタンプ設置場所の「春日山城跡ものがたり館」の閉館時間が4時半になっていた。
「なに、こうしちゃいらんねぇ」とばかりに、残りのかつ丼をかっこみ、バイクに飛び乗った。上越ICまではすぐだが、市内を抜けて目的地までの時間は全く読めない。小雨降りしきる北陸道を急いだ。
市内で少し迷って「春日山城跡ものがたり館」に到着したのが4時25分くらい。なんとか間に合ったぁと安堵したものの、館内に電気が着いておらず、人の気配もない。多少遠慮がちに「ごめんくださーい」と一声掛けると、奥からひとりの柔和な女性が出てきた。「まだ入れますか?」と尋ねると、快くOKしてくれた。ここまできて「次の機会にして下さいね」と言われたらどうしようと思っていただけに、温かい対応に心から感謝!「ビデオも観ていきますか?」と聞かれ、即答で「はい」。春日山城と上杉謙信の歴史をしっかり勉強させていただいた。
結局、雨や時間の関係で城址までは行けなかった。登城断念は3城目。時間に制約があるツーリングの旅だが、天下の名城とされる春日山城に登れなかったのは残念としか言いようがない。またいつか再訪の日を楽しみにしたいと思う。
高岡から雨の北陸道をひた走り、僕は上越に向かっていた。ふと、昼食らしきものを何も食べていないことに気付き、名立谷浜SAでソースかつ丼を食する。午後4時前、なんとか5時までには春日山城に到着する予定だった。かつを頬張りながら、iPhoneで春日山城情報を見ていると、スタンプ設置場所の「春日山城跡ものがたり館」の閉館時間が4時半になっていた。
「なに、こうしちゃいらんねぇ」とばかりに、残りのかつ丼をかっこみ、バイクに飛び乗った。上越ICまではすぐだが、市内を抜けて目的地までの時間は全く読めない。小雨降りしきる北陸道を急いだ。
市内で少し迷って「春日山城跡ものがたり館」に到着したのが4時25分くらい。なんとか間に合ったぁと安堵したものの、館内に電気が着いておらず、人の気配もない。多少遠慮がちに「ごめんくださーい」と一声掛けると、奥からひとりの柔和な女性が出てきた。「まだ入れますか?」と尋ねると、快くOKしてくれた。ここまできて「次の機会にして下さいね」と言われたらどうしようと思っていただけに、温かい対応に心から感謝!「ビデオも観ていきますか?」と聞かれ、即答で「はい」。春日山城と上杉謙信の歴史をしっかり勉強させていただいた。
結局、雨や時間の関係で城址までは行けなかった。登城断念は3城目。時間に制約があるツーリングの旅だが、天下の名城とされる春日山城に登れなかったのは残念としか言いようがない。またいつか再訪の日を楽しみにしたいと思う。
百名城12城目。
僕はなぜか路面電車と縁がある。既に廃線になってしまったが、母方の実家では電車の走る音が聞こえたし、3年前まで住んでいた鹿児島にも現在住んでいる東京でも路面電車が走っている。のんびりと街に寄り添って走る路面電車が僕は好きだ。
高岡のイメージは、社会科で習った「アルミニウムの産地」と路面電車(というかトラム)が走る街というもので、お城は全く入っていなかった。訪れた日はちょうどお祭りが開催されていて、街の中心部は車両通行止めになっていた。ナビに誘導されて高岡城まで向かった僕は、何度もルート変更を余儀なくされた。
ようやく辿り着いた高岡古城公園。市立博物館の駐車場にバイクを停めて、受付でスタンプをもらう。博物館を一巡りしたが、産業の街として発展してきた高岡が紹介されていて、新鮮な発見があった。特に全国各地にある銅像の多くが高岡で製造されていることは全く知らなかった。このブログの写真の鬼太郎(境港)も高岡産らしい。
お城はというと、現在は完全な公園になっていて、建造物は何も残っていない。百名城ガイドブックによると「中央の本丸を土橋で結ばれた曲輪が『コ』の字形に連続して囲んでいる…『連続馬出』と称され…」とあるが、上空から俯瞰することもできないのでよくわからなかった。
印象的だったのは、城主であった前田利長の銅像。「銀鯰尾形兜(ぎんなまずおなりかぶと)」いう極めて長い兜をかぶっていたらしい。戦場で目立って仕方ないだろうと思うが、かえって部下の士気を上げるためには効果的だったのだろう。そう言えば、戦国の傾奇者として名高い前田慶次も養子ながら前田家の人間なので(利家との確執?は「一夢庵風流記」の面白い一場面だけど)、もしかしたら家風として単に派手好きだったのかもしれないが。
雨は止んで、青空すら見えてきた。次の目的地は春日山城。この時の穏やかな天候が束の間の休息でしかなかったことを、僕はすぐに思い知ることになる。
僕はなぜか路面電車と縁がある。既に廃線になってしまったが、母方の実家では電車の走る音が聞こえたし、3年前まで住んでいた鹿児島にも現在住んでいる東京でも路面電車が走っている。のんびりと街に寄り添って走る路面電車が僕は好きだ。
高岡のイメージは、社会科で習った「アルミニウムの産地」と路面電車(というかトラム)が走る街というもので、お城は全く入っていなかった。訪れた日はちょうどお祭りが開催されていて、街の中心部は車両通行止めになっていた。ナビに誘導されて高岡城まで向かった僕は、何度もルート変更を余儀なくされた。
ようやく辿り着いた高岡古城公園。市立博物館の駐車場にバイクを停めて、受付でスタンプをもらう。博物館を一巡りしたが、産業の街として発展してきた高岡が紹介されていて、新鮮な発見があった。特に全国各地にある銅像の多くが高岡で製造されていることは全く知らなかった。このブログの写真の鬼太郎(境港)も高岡産らしい。
お城はというと、現在は完全な公園になっていて、建造物は何も残っていない。百名城ガイドブックによると「中央の本丸を土橋で結ばれた曲輪が『コ』の字形に連続して囲んでいる…『連続馬出』と称され…」とあるが、上空から俯瞰することもできないのでよくわからなかった。
印象的だったのは、城主であった前田利長の銅像。「銀鯰尾形兜(ぎんなまずおなりかぶと)」いう極めて長い兜をかぶっていたらしい。戦場で目立って仕方ないだろうと思うが、かえって部下の士気を上げるためには効果的だったのだろう。そう言えば、戦国の傾奇者として名高い前田慶次も養子ながら前田家の人間なので(利家との確執?は「一夢庵風流記」の面白い一場面だけど)、もしかしたら家風として単に派手好きだったのかもしれないが。
雨は止んで、青空すら見えてきた。次の目的地は春日山城。この時の穏やかな天候が束の間の休息でしかなかったことを、僕はすぐに思い知ることになる。
百名城11城目。
金沢を後にして、1か月前に無料になったばかりの能登道路(「のと里山海道」に改名)を北上する。高松SAで小休止していると大粒の雨が落ちてきた。これ以降、雨が降ったり止んだりの一日となる。
一路、七尾市街を目指す。おそらく百名城に選ばれていなければ訪れることがなかった街だろう。市内からほど近くに七尾城があった。戦国時代前期(という分類が正しいかはわからないが)1500年代早々に能登畠山氏によって築かれた。
まずは七尾城史資料館でスタンプを押す。ここの職員(ボランティア?)の方がとても親切で、「時間がありますか?」と問われて「え、ええ」と答えると、七尾城の沿革について説明してくれた。ちょっと長いなぁと思いつつも、丁寧な解説に好感が持てた。そこから更に山に登って七尾城を目指す。
ひと気がない駐車場にバイクを停めて、半ばぬかるんでいる道を慎重に歩く。少し進むと無数の小さめの石で形成された石垣が見えてくる。当時は巨石を積み上げる技術がなかったそうだが、この野面積の石垣が風情を感じさせる。三段、五段と積まれた様は下から眺めると切り立った巨大な石垣に見せる効果があったのかもしれない。
資料館のガイドさんに教えてもらった撮影ポイントに行ってみる。雨に濡れた鬱蒼とした森に、段々畑のように連なる石垣が美しかった。上杉謙信がこの城を攻略し、大層喜んだということだが、能登半島の付け根に位置する戦略性、七尾湾を見下ろす眺望とともに、この美しい石垣も愛でたのであろう。
金沢を後にして、1か月前に無料になったばかりの能登道路(「のと里山海道」に改名)を北上する。高松SAで小休止していると大粒の雨が落ちてきた。これ以降、雨が降ったり止んだりの一日となる。
一路、七尾市街を目指す。おそらく百名城に選ばれていなければ訪れることがなかった街だろう。市内からほど近くに七尾城があった。戦国時代前期(という分類が正しいかはわからないが)1500年代早々に能登畠山氏によって築かれた。
まずは七尾城史資料館でスタンプを押す。ここの職員(ボランティア?)の方がとても親切で、「時間がありますか?」と問われて「え、ええ」と答えると、七尾城の沿革について説明してくれた。ちょっと長いなぁと思いつつも、丁寧な解説に好感が持てた。そこから更に山に登って七尾城を目指す。
ひと気がない駐車場にバイクを停めて、半ばぬかるんでいる道を慎重に歩く。少し進むと無数の小さめの石で形成された石垣が見えてくる。当時は巨石を積み上げる技術がなかったそうだが、この野面積の石垣が風情を感じさせる。三段、五段と積まれた様は下から眺めると切り立った巨大な石垣に見せる効果があったのかもしれない。
資料館のガイドさんに教えてもらった撮影ポイントに行ってみる。雨に濡れた鬱蒼とした森に、段々畑のように連なる石垣が美しかった。上杉謙信がこの城を攻略し、大層喜んだということだが、能登半島の付け根に位置する戦略性、七尾湾を見下ろす眺望とともに、この美しい石垣も愛でたのであろう。
百名城10城目。
加賀百万石前田家の居城。兼六園とともに街の風景に溶け込み、21世紀の現代においても堂々の風格を誇る。
兼六園が早朝開放しているとのことで、6時過ぎにホテルを出た。朝の城下町はひっそりとしていて、ジョギングをする人や同じく早朝開放に向かうであろうガイドブック片手の観光客がまばらにいるだけだった。金沢城は予想以上に大きく、いもり堀を左手に見ながらのんびり進んでいく。
そもそも兼六園は前田家の庭園だったわけで、金沢城はセットのようなもの。どちらかしか行かないという選択肢はないだろう。見事に整備された庭は日本三大庭園と称されるにふさわしいのだろうけど、7時で無料開放が終了するため「出て下さい」とのアナウンスに急かされて外に出ることになった。時間の関係で、庭の造形に込められた意図を知ることなく漠然と回ったことが少し残念だった。
兼六園から隣の金沢城へ。石川門から入り、案内所でスタンプをゲット。五十間長屋など有料拝観のところは観られなかったものの、自然たっぷりの本丸跡、多種多様の石垣の妙、全体的に金沢の顔として整備された城址の美しさを楽しむことができた。
加賀百万石前田家の居城。兼六園とともに街の風景に溶け込み、21世紀の現代においても堂々の風格を誇る。
兼六園が早朝開放しているとのことで、6時過ぎにホテルを出た。朝の城下町はひっそりとしていて、ジョギングをする人や同じく早朝開放に向かうであろうガイドブック片手の観光客がまばらにいるだけだった。金沢城は予想以上に大きく、いもり堀を左手に見ながらのんびり進んでいく。
そもそも兼六園は前田家の庭園だったわけで、金沢城はセットのようなもの。どちらかしか行かないという選択肢はないだろう。見事に整備された庭は日本三大庭園と称されるにふさわしいのだろうけど、7時で無料開放が終了するため「出て下さい」とのアナウンスに急かされて外に出ることになった。時間の関係で、庭の造形に込められた意図を知ることなく漠然と回ったことが少し残念だった。
兼六園から隣の金沢城へ。石川門から入り、案内所でスタンプをゲット。五十間長屋など有料拝観のところは観られなかったものの、自然たっぷりの本丸跡、多種多様の石垣の妙、全体的に金沢の顔として整備された城址の美しさを楽しむことができた。
百名城9城目。
おそらく城好きの間では知られていたのだろうが、にわかお城ファンの僕は正直全く知らなかった。柴田勝家の甥、柴田勝豊の築城とも言われる小ぶりな天守は、現存する中では最古の建物らしい。ただ、一度地震によって崩壊した天守を80%以上同じ資材を用いて建て直したとのことで、厳密に言うと最古ではない。しかし充分に品格を備え、威厳と趣があった。
天守閣に登る。急な階段には縄が下げられており、掴まなければ登れないほどの急角度。ここまで敵に攻め込まれた場合に、形勢を挽回することは不可能であろうが、自らの命を絶つ時間くらいは稼げるかもしれないと思う。もしそれが目的で急な階段を拵えたとすれば、武士の美徳と哀しさと言えるだろう。
丸岡藩の初代藩主は本多成重という人物で、日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の「お仙(仙千代)」だそうだ。父の重次が長篠の戦いの陣中から妻に送ったもので、簡潔な名文とされている。いつの時代もコミュニケーションの重要性を示す、ほっこりするエピソードだ。
「一筆啓上 ツーリング 無事帰るまで 娘よろしく」
なんてメールしようと思ったが、家を空けて遊び呆けている事実をわざわざ知らしめるような気がしたので止めておいた。
おそらく城好きの間では知られていたのだろうが、にわかお城ファンの僕は正直全く知らなかった。柴田勝家の甥、柴田勝豊の築城とも言われる小ぶりな天守は、現存する中では最古の建物らしい。ただ、一度地震によって崩壊した天守を80%以上同じ資材を用いて建て直したとのことで、厳密に言うと最古ではない。しかし充分に品格を備え、威厳と趣があった。
天守閣に登る。急な階段には縄が下げられており、掴まなければ登れないほどの急角度。ここまで敵に攻め込まれた場合に、形勢を挽回することは不可能であろうが、自らの命を絶つ時間くらいは稼げるかもしれないと思う。もしそれが目的で急な階段を拵えたとすれば、武士の美徳と哀しさと言えるだろう。
丸岡藩の初代藩主は本多成重という人物で、日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の「お仙(仙千代)」だそうだ。父の重次が長篠の戦いの陣中から妻に送ったもので、簡潔な名文とされている。いつの時代もコミュニケーションの重要性を示す、ほっこりするエピソードだ。
「一筆啓上 ツーリング 無事帰るまで 娘よろしく」
なんてメールしようと思ったが、家を空けて遊び呆けている事実をわざわざ知らしめるような気がしたので止めておいた。
百名城8城目。
静かな谷間の小川に雪解け水が勢いよく流れ、畔には春の花が咲き誇る。童と小鳥の歓声が、長かった冬の終わりを告げる…
なんてひとり勝手に妄想を働かせる、なんとも穏やかな谷。一乗谷を訪れた率直な感想だ。戦闘目的の城というより、朝倉家の屋敷跡でしかない。復元された街並みもあるが、時代劇のセットのようであまりマッチしていないような気がした。平日で人が少なかったからかもしれない。
防御に適さないであろうここ一乗谷が政治と商業の中心地であったのなら、それは朝倉家の善政を裏付けるものなのかもしれない。花が落ちる様が落首をイメージさせることから、武家が忌避したとされる椿が綺麗に咲いていた。なんとなく一乗谷の儚さと重ね合わせて、シャッターを切った。
織田信長という強烈な個性の登場によって、一辺境になってしまった一乗谷。なぜソフトバンクのお父さん犬の故郷という設定なのか全く理解不能なまま、僕は次の目的地、丸岡城に急いだ。
静かな谷間の小川に雪解け水が勢いよく流れ、畔には春の花が咲き誇る。童と小鳥の歓声が、長かった冬の終わりを告げる…
なんてひとり勝手に妄想を働かせる、なんとも穏やかな谷。一乗谷を訪れた率直な感想だ。戦闘目的の城というより、朝倉家の屋敷跡でしかない。復元された街並みもあるが、時代劇のセットのようであまりマッチしていないような気がした。平日で人が少なかったからかもしれない。
防御に適さないであろうここ一乗谷が政治と商業の中心地であったのなら、それは朝倉家の善政を裏付けるものなのかもしれない。花が落ちる様が落首をイメージさせることから、武家が忌避したとされる椿が綺麗に咲いていた。なんとなく一乗谷の儚さと重ね合わせて、シャッターを切った。
織田信長という強烈な個性の登場によって、一辺境になってしまった一乗谷。なぜソフトバンクのお父さん犬の故郷という設定なのか全く理解不能なまま、僕は次の目的地、丸岡城に急いだ。
百名城7城目。
今日は丸岡城まで回るつもり。琵琶湖周辺は岐阜の親戚訪問時など、他の機会に回すこともができるが、なかなか福井に行くチャンスはないのだ。ということで、ゆっくり見たい国宝彦根城は時間の関係で今回はパス。安土城を出た僕は、小谷城に急いだ。
浅井氏の居城で、落城直前にお市の方や茶々、生まれたばかりのお江を逃がした長政の逸話は涙を誘う。大河ドラマの影響か、小谷城がある山の麓には兜をモチーフにした石像があった。
城址まで一般車両は通行止めになっていて、バスに乗らなければならないらしい。GWの中日とはいえ平日だったので「こんな規制しなくても…」と思ったが、決まりならば仕方ない。ならぬものはならぬものです。時刻表を見るとちょっと時間が空いてしまう。先を急がねばならない理由もある。今回は泣く泣くスタンプを押しに「小谷城戦国歴史資料館」に立ち寄ったのみでこの地を後にした。
今日は丸岡城まで回るつもり。琵琶湖周辺は岐阜の親戚訪問時など、他の機会に回すこともができるが、なかなか福井に行くチャンスはないのだ。ということで、ゆっくり見たい国宝彦根城は時間の関係で今回はパス。安土城を出た僕は、小谷城に急いだ。
浅井氏の居城で、落城直前にお市の方や茶々、生まれたばかりのお江を逃がした長政の逸話は涙を誘う。大河ドラマの影響か、小谷城がある山の麓には兜をモチーフにした石像があった。
城址まで一般車両は通行止めになっていて、バスに乗らなければならないらしい。GWの中日とはいえ平日だったので「こんな規制しなくても…」と思ったが、決まりならば仕方ない。ならぬものはならぬものです。時刻表を見るとちょっと時間が空いてしまう。先を急がねばならない理由もある。今回は泣く泣くスタンプを押しに「小谷城戦国歴史資料館」に立ち寄ったのみでこの地を後にした。
百名城6城目。
言い訳①雨が降っていて、あまり整備されていない山城の観音寺城には登れなかった。
言い訳②この日は金沢まで移動しなければならず、優先順位を付けざるを得なかった。
言い訳③思いがけず、安土城郭資料館で観音寺城のスタンプまで押せてしまった。
ということで、観音寺城はスタンプのみ。城跡に足を踏み入れること叶わず…いずれ再訪したいと思う。
言い訳①雨が降っていて、あまり整備されていない山城の観音寺城には登れなかった。
言い訳②この日は金沢まで移動しなければならず、優先順位を付けざるを得なかった。
言い訳③思いがけず、安土城郭資料館で観音寺城のスタンプまで押せてしまった。
ということで、観音寺城はスタンプのみ。城跡に足を踏み入れること叶わず…いずれ再訪したいと思う。
百名城5城目。
言わずと知れた信長天下布武の夢の城。絢爛豪華な天守閣(安土城は天主と言うらしい)はもちろん現存しないが、雨上がりで鬱蒼とした雰囲気が夢の儚さを一層偲ばせる。
メインストリートのような石段に幾つかの石仏が積まれている。石であれば石仏すらも供出させたというエピソードから、神仏すら従わせようとした信長の物凄さが感じられる。結果として秀吉、家康に繋がっていくことを思うと、自らをも燃え散らした烈火の如き執念が歴史を作ったとも言える。
信長同様、安土城自体も短命に終わったが、史料が伝える規模や天主の豪華さは天下に号令するに足るものであったらしい。
本丸の石垣に登ると、水を湛えた琵琶湖が眼下に広がる。当時日本随一の城で信長が何を思ったか、想像するだけでも楽しい。
言わずと知れた信長天下布武の夢の城。絢爛豪華な天守閣(安土城は天主と言うらしい)はもちろん現存しないが、雨上がりで鬱蒼とした雰囲気が夢の儚さを一層偲ばせる。
メインストリートのような石段に幾つかの石仏が積まれている。石であれば石仏すらも供出させたというエピソードから、神仏すら従わせようとした信長の物凄さが感じられる。結果として秀吉、家康に繋がっていくことを思うと、自らをも燃え散らした烈火の如き執念が歴史を作ったとも言える。
信長同様、安土城自体も短命に終わったが、史料が伝える規模や天主の豪華さは天下に号令するに足るものであったらしい。
本丸の石垣に登ると、水を湛えた琵琶湖が眼下に広がる。当時日本随一の城で信長が何を思ったか、想像するだけでも楽しい。
百名城4城目。
鎌倉時代末期に、ここで楠木正成の兵一千と幕府軍百万の激戦が繰り広げられた。百日に亘って守り切って幕府軍を釘付けにしたことが、新田義貞の挙兵と手薄な鎌倉攻略に繋がったとも言われる。したがって鎌倉幕府崩壊における重要な一局面であり、歴史の転換点と位置付けられる城なのであろう。
ただここには「城」がない。遺構も殆ど残っておらず、古戦場跡と言った方が適当かもしれない。城と砦の定義には詳しくないが、百名城に名を連ねる中では異色の存在だろう。
楠木正成が希代の戦さ上手であったことには全面的に首肯する。しかしあくまで戦術家であり、戦略家として最終的な勝利を掴み得なかった点に、楠木正成の限界があったと思う。
近代、忠誠心の鑑「大楠公」として神格化されていくが、「寡兵以って大軍を破る」という戦略的には極めて邪道なお手本に倣ってしまったところに、旧日本軍の不幸があったのかもしれない。
急な山道を登り、城跡でそんなことを考えた。何せ城として見るべきものがないので、想像の翼を広げるしかない。
もちろん百名城は建築としての優劣を序列化したものではないとわかっていても、なんだか複雑な気分。物語性は充分持ち合わせているので、せっかくならもう少し整備するなり、PRするなりすればいいのにね。
鎌倉時代末期に、ここで楠木正成の兵一千と幕府軍百万の激戦が繰り広げられた。百日に亘って守り切って幕府軍を釘付けにしたことが、新田義貞の挙兵と手薄な鎌倉攻略に繋がったとも言われる。したがって鎌倉幕府崩壊における重要な一局面であり、歴史の転換点と位置付けられる城なのであろう。
ただここには「城」がない。遺構も殆ど残っておらず、古戦場跡と言った方が適当かもしれない。城と砦の定義には詳しくないが、百名城に名を連ねる中では異色の存在だろう。
楠木正成が希代の戦さ上手であったことには全面的に首肯する。しかしあくまで戦術家であり、戦略家として最終的な勝利を掴み得なかった点に、楠木正成の限界があったと思う。
近代、忠誠心の鑑「大楠公」として神格化されていくが、「寡兵以って大軍を破る」という戦略的には極めて邪道なお手本に倣ってしまったところに、旧日本軍の不幸があったのかもしれない。
急な山道を登り、城跡でそんなことを考えた。何せ城として見るべきものがないので、想像の翼を広げるしかない。
もちろん百名城は建築としての優劣を序列化したものではないとわかっていても、なんだか複雑な気分。物語性は充分持ち合わせているので、せっかくならもう少し整備するなり、PRするなりすればいいのにね。
百名城3城目。
御三家のひとつ、紀伊徳川家の居城だけあって、和歌山市街地の真中に位置する平城。和歌山ラーメンを平らげ、いざ登城。市民の憩いの場になっているのだろう、老若男女、多くの人たちが天守閣に登っていた。
復元されたコンクリート造りだが、緑に覆われた高台に建つ三層の天守閣はなかなかの風情を湛えている。天守閣に百名城スタンプがあるのに、最初は勘違いして素通り。汗をかきながら再度石段を登ることになった。
庭園の池に、かつては藩主のみが通ることができた「御橋廊下」が架かる。倹約を旨とした吉宗公を輩出した藩とは思えない贅沢な趣向が面白い。現在は一般の人も普通に渡れるのだが、今回は時間の関係でパス。今思えばもったいなかったかな。残念。
雲が空を覆い始める中、赤いムルティは次の目的地である千早城に向けて北上を開始するのでした。
御三家のひとつ、紀伊徳川家の居城だけあって、和歌山市街地の真中に位置する平城。和歌山ラーメンを平らげ、いざ登城。市民の憩いの場になっているのだろう、老若男女、多くの人たちが天守閣に登っていた。
復元されたコンクリート造りだが、緑に覆われた高台に建つ三層の天守閣はなかなかの風情を湛えている。天守閣に百名城スタンプがあるのに、最初は勘違いして素通り。汗をかきながら再度石段を登ることになった。
庭園の池に、かつては藩主のみが通ることができた「御橋廊下」が架かる。倹約を旨とした吉宗公を輩出した藩とは思えない贅沢な趣向が面白い。現在は一般の人も普通に渡れるのだが、今回は時間の関係でパス。今思えばもったいなかったかな。残念。
雲が空を覆い始める中、赤いムルティは次の目的地である千早城に向けて北上を開始するのでした。
百名城2城目。
今回は訪れる予定ではなかったのだが、熊野本宮大社から高野山に抜ける道が通行止めだったために、急遽予定を変更して向かったお城。3年前泊った旅館の前を通り、奈良県に入る。
その3年前の奈良仏像巡りツーリングでデビューしたポータブルナビのおかげで、百名城スタンプがある麓の高取町観光案内所「夢創館」に迷わず到着。スタンプを押して一息つこうとコーヒーを注文、館内(と言ってもお土産屋さんの風情だが)に貼られたかつての高取城の写真などを見ていると、おもむろに店じまいを始めるおばさん。聞くと16時半閉館とのこと。余裕を持って来たつもりだったが、本当はギリギリだったのだ。ナビ様々だ。
城址はかなり山の上にあった。ガイドブックによると標高は583m。バイクを停めて更に山道を進むこと15分、かつて権勢を誇ったであろう建造物は何も残っていないものの立派な石垣がそびえている。正直狭隘な山道をバイクで登ってくるのでも一苦労なのに、こんな山の上にこれほどまでの城郭を築こうとする発想と実行力、特に人の手でひとつひとつ運ばれたであろう石が十数メートルの高さに積み上げられている高石垣は驚嘆に値する。
荒れた風情も美しい。整備の手も入っていると思うが、手をかけ過ぎていないところもいい。日本三大山城と称されるにふさわしい、孤高の貫録を有していた。
今回は訪れる予定ではなかったのだが、熊野本宮大社から高野山に抜ける道が通行止めだったために、急遽予定を変更して向かったお城。3年前泊った旅館の前を通り、奈良県に入る。
その3年前の奈良仏像巡りツーリングでデビューしたポータブルナビのおかげで、百名城スタンプがある麓の高取町観光案内所「夢創館」に迷わず到着。スタンプを押して一息つこうとコーヒーを注文、館内(と言ってもお土産屋さんの風情だが)に貼られたかつての高取城の写真などを見ていると、おもむろに店じまいを始めるおばさん。聞くと16時半閉館とのこと。余裕を持って来たつもりだったが、本当はギリギリだったのだ。ナビ様々だ。
城址はかなり山の上にあった。ガイドブックによると標高は583m。バイクを停めて更に山道を進むこと15分、かつて権勢を誇ったであろう建造物は何も残っていないものの立派な石垣がそびえている。正直狭隘な山道をバイクで登ってくるのでも一苦労なのに、こんな山の上にこれほどまでの城郭を築こうとする発想と実行力、特に人の手でひとつひとつ運ばれたであろう石が十数メートルの高さに積み上げられている高石垣は驚嘆に値する。
荒れた風情も美しい。整備の手も入っていると思うが、手をかけ過ぎていないところもいい。日本三大山城と称されるにふさわしい、孤高の貫録を有していた。
記念すべき百名城巡りのスタートは、三重県の松坂城。「牛銀」にて美味しい松阪肉の牛丼で腹ごしらえしてから登城。
街中に美しい石垣が残るお城がある情景は、おそらくそこに住む、あるいは暮らしていた人たちにとって幸福なことだろう。街の誇りとして、故郷を思い返す縁として。
松坂城は街の中心の小高い丘の上にある。梶井基次郎の短編小説「城がある町にて」のモデルになったらしい。近代的な平山城で、戦闘よりも松阪商人に代表される商業の発展に主眼を置いた造りであることが分かる。
二の丸から街を眺める。さほど規模は大きくないものの、商業で栄えた街が眼下に広がる。城ができてから数百年の間、多くの悲喜こもごもの人間模様がこの街で展開されていたのだろうけど、今日、石垣の上を吹き抜ける風と揺れる野の花はとても穏やかだった。
街中に美しい石垣が残るお城がある情景は、おそらくそこに住む、あるいは暮らしていた人たちにとって幸福なことだろう。街の誇りとして、故郷を思い返す縁として。
松坂城は街の中心の小高い丘の上にある。梶井基次郎の短編小説「城がある町にて」のモデルになったらしい。近代的な平山城で、戦闘よりも松阪商人に代表される商業の発展に主眼を置いた造りであることが分かる。
二の丸から街を眺める。さほど規模は大きくないものの、商業で栄えた街が眼下に広がる。城ができてから数百年の間、多くの悲喜こもごもの人間模様がこの街で展開されていたのだろうけど、今日、石垣の上を吹き抜ける風と揺れる野の花はとても穏やかだった。