広島の街を歩く

2006年3月10日
緑に覆われて、眩い光に包まれた広島の街は、とても60年前の悲劇を想像させる術はない。世界遺産の原爆ドームも、ローマの遺跡のように街に溶け込んでいるし、平和公園の噴水も豊かな水を湛えている。

半世紀以上前に一瞬で街が消滅した名残は、100m道路と呼ばれている幅の広い目抜き通りにある。100mもの道幅ができたのも建物の一切が消え去ったことによるものだろうし、並木は戦後世界中から贈られた植樹だそうで、様々な種類の植生が見られる。平和のモニュメントだけではなく、目を凝らすと「リトルボーイ」の爪あとが残っていることに気付かされる。

友人が広島に赴任した直後、タバコを投げ捨てたそうだ。僕自身は吸わないからよくわからないが、6年以上前の話なので、全国的には今ほどうるさく注意されなかったのでは、と思う。しかし一緒にいた広島出身の同僚は烈火の如く怒って言った。
「この場所でも、何人もの人が亡くなっているんだ!すぐ拾え」
戦災を被った都市は数知れない。僕らはその犠牲者について、普段から思いを至らすことはない。まして、今立っている場所で人が亡くなったとは想像もしない。だが広島は違うようだ。

仕事の出張であったため時間はタイトだったが、平和公園の資料館にも足を延ばした。入館してすぐはおとなしい印象だったものの、渡り廊下を渡った建物では原爆がもたらした死、恐怖、苦痛などの悲惨な情景が展示されていた。工場で働いていた女学生の衣服や爛れた皮膚、ひしゃげた鉄骨、熱線で人の影だけが残った石段、黒焦げの弁当箱・・・

結構、外国人の姿が多かったのが印象的だった。外国の人々、特にアメリカ人はどう感じるのか聞いてみたい気はする。マリリン・モンローはあまりの悲惨さに直視できず、途中で見学を中止したとの逸話も残っているそうだ。戦争の早期終結には不可欠だった、という見方が圧倒的多数を占めると思うが、武器の威力を示すだけなら市民の頭上で爆発させる必要はなかったのではないか。早期終戦によりソ連の進出を最小限に抑え、さらに初めて実戦(無差別爆撃は「戦い」ではないと思うが)に使用された原爆の威力を綿密に測定して、今後の世界戦略を有利に進めるため、などの思惑が一致した結果であろう。

「75年は草一本生えない」と言われた世界初の被爆都市、広島。60年の月日は緑豊かな大地を培った。天気は澄み切って、通る風も心地よい。ただ、僕は言い知れぬ感慨を抱いて、祈りの街の中を歩いていった。

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