百名城4城目。
鎌倉時代末期に、ここで楠木正成の兵一千と幕府軍百万の激戦が繰り広げられた。百日に亘って守り切って幕府軍を釘付けにしたことが、新田義貞の挙兵と手薄な鎌倉攻略に繋がったとも言われる。したがって鎌倉幕府崩壊における重要な一局面であり、歴史の転換点と位置付けられる城なのであろう。
ただここには「城」がない。遺構も殆ど残っておらず、古戦場跡と言った方が適当かもしれない。城と砦の定義には詳しくないが、百名城に名を連ねる中では異色の存在だろう。
楠木正成が希代の戦さ上手であったことには全面的に首肯する。しかしあくまで戦術家であり、戦略家として最終的な勝利を掴み得なかった点に、楠木正成の限界があったと思う。
近代、忠誠心の鑑「大楠公」として神格化されていくが、「寡兵以って大軍を破る」という戦略的には極めて邪道なお手本に倣ってしまったところに、旧日本軍の不幸があったのかもしれない。
急な山道を登り、城跡でそんなことを考えた。何せ城として見るべきものがないので、想像の翼を広げるしかない。
もちろん百名城は建築としての優劣を序列化したものではないとわかっていても、なんだか複雑な気分。物語性は充分持ち合わせているので、せっかくならもう少し整備するなり、PRするなりすればいいのにね。
鎌倉時代末期に、ここで楠木正成の兵一千と幕府軍百万の激戦が繰り広げられた。百日に亘って守り切って幕府軍を釘付けにしたことが、新田義貞の挙兵と手薄な鎌倉攻略に繋がったとも言われる。したがって鎌倉幕府崩壊における重要な一局面であり、歴史の転換点と位置付けられる城なのであろう。
ただここには「城」がない。遺構も殆ど残っておらず、古戦場跡と言った方が適当かもしれない。城と砦の定義には詳しくないが、百名城に名を連ねる中では異色の存在だろう。
楠木正成が希代の戦さ上手であったことには全面的に首肯する。しかしあくまで戦術家であり、戦略家として最終的な勝利を掴み得なかった点に、楠木正成の限界があったと思う。
近代、忠誠心の鑑「大楠公」として神格化されていくが、「寡兵以って大軍を破る」という戦略的には極めて邪道なお手本に倣ってしまったところに、旧日本軍の不幸があったのかもしれない。
急な山道を登り、城跡でそんなことを考えた。何せ城として見るべきものがないので、想像の翼を広げるしかない。
もちろん百名城は建築としての優劣を序列化したものではないとわかっていても、なんだか複雑な気分。物語性は充分持ち合わせているので、せっかくならもう少し整備するなり、PRするなりすればいいのにね。
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